なぜ、テレビは負けたのか。(Why TV Lost): Y Combinatorのポール・グラハムが語るテレビがインターネットに負けた理由。

2009年にY CombinatorのPaul Grahamがブログに書いていた「Why TV Lost」を超訳しました。正確に翻訳することよりもニュアンスの方を大切にしているので、気になる人もいらっしゃるかもしれませんがご容赦を。原文はこちら
※この記事の見出しは原文にはありませんが、こちらで読みやすいようにつけています。

=====以下、翻訳=====

2009年3月

20年くらい前、人々はコンピュータとテレビは衝突軌道上にあることに気づき、その2つが収斂したら何を生み出すだろうと人々は思考していた。僕たちは今、答えを持っている:コンピュータだけだ。「収斂」という言葉にすることさえ、テレビに大きすぎる信用を置いてしまっていたことは明白である。起こったことは「収斂」ではなく、「置換」ですらもない。人々は「TVショー」と呼ばれるタイプのコンテンツは観るだろうが、ほとんどの場合コンピュータで観ることになるだろう。

コンピューターとインターネットを後押しした4つの力

何がその試合をコンピューターとインターネットのための出来レースにしてしまったのだろうか?そこには4つの力が働いたが、そのうち3つは当時予測できたかもしれないもの、そしてもう1つは予測などできなかったものであった。

オープンプラットフォーム

予測が可能だった勝因の1番目はインターネットがオープンなプラットフォームであったことである:誰でも自分が欲しいと思ったものを作ることが出来、市場原理により勝者が決まる。結果的にイノベーションは大企業ではなくハッカーのスピードで起きるようになった。

ムーアの法則

2番目はムーアの法則で、これがインターネットの帯域幅にも他のものと同様に作用した。[1]

プライバシー

3番目はプライバシーだ。ユーザーたちがインターネットの方をテレビよりも好んだのはそれが無料だからというだけでなく、より便利であるからだ。BittorrentとYouTubeは新世代の視聴者たちに対して、コンピューターの画面こそがショーが見られる場所であるとすでに教育してしまった。[2]

ソーシャル

4つ目は予想できなかった力、とさっき書いたが、それはソーシャルアプリという固有なイノベーションだ。平均的な10代の子供は友達と喋るのにキャパシティー自体は存在しないと言える。しかし、彼らがずっと友達と物理的に一緒にいることはできない。私が高校生の時、その問題に対するソリューションは電話だった。今ではそれはソーシャルネットワークやオンラインゲーム、たくさんのメッセージアプリになった。友達にリーチするためにはいずれにしてもコンピューターが必要だ。[3]

つまり、全10代の子供は(a)インターネットに接続されているコンピューターを必要とし、(b)使い方を理解するインセンティブを持ち、(c)コンピューターの前でずーっと時間を使うのだ。

この4つ目の力が最も強い力だ。この力のせいでみんながコンピューターを欲しがった。オタクはコンピューターが好きだから買った。ゲーマーはゲームをするために買った。しかしその他の人は皆、他の人と繋がろうとしてコンピューターを買った。その力がおばあちゃんや14歳の少女ですらコンピューターを欲しがった理由だ。

何十年も視聴者に点滴を送っているうちに、エンターテイメントビジネスをする人々は、当然ながら、視聴者が受動的であると考えるようになった。彼らがリーチできているユーザーの視聴方法などコントロール出来ると思っていた。しかし彼らはユーザーが他の人と繋がりたいという欲求について過小評価していた

“Facebookがテレビを殺した(Facebook killed TV.)” – これはもちろん強引にシンプルにし過ぎた言葉だが、あなたが英語3単語で理解出来ることからわかるように、真実にかなり近い言葉なのだろう。

ユーザーを過小評価していたエンタメ業界が生き残るためには

テレビ局は不承不承ながら何が起きているのかを理解し、オンラインにコンテンツを置くことで反応してきている。しかし彼らはまだかかとを引きずっている。彼らは未だに人々がテレビでコンテンツを消費してくれることを願っているようにみえる、ちょうど新聞社がニュースを翌日の朝刊まで待って紙面で読んでくれるのを願っているのと同じように。どちらの業界もインターネットが主媒体になっているという事実にちゃんと向き合うべきだ。

もしその事実を早く認めることができればより良いポジションを作ることが出来る。新しい媒体が出てきてそれが既存プレイヤーにとって脅威になるくらい・そして勝者になってしまうくらいパワフルなものであったら、その時にベストな方法は直ちにその中に飛び込むことだ。

人々がそれを好むか好まないかに関わらず、大きな変化というのはやってくる。なぜならインターネットは放送メディアの2つの基本概念、「同時性」と「局所性」を分解してしまうからだ。インターネット上ではあなたは全員に同じ情報を送信しなくても良いし、 その情報をある場所から発信する必要もない。人々は情報を欲しい時に欲しいものを観るし、何であれ自身も最も強い興味をシェアすることで自分たち自身をグルーピングする。もしかしたら、人々がもっとも強く共有している興味というのは物理的な場所かもしれないけれど、僕は違うんじゃないかと思っている。それは地元テレビが死んだことを意味する。それは過去の技術により制限を課された過去の遺物であった。もし誰かが興味ベースのテレビ局をフルスクラッチで作ったら、特定の地域に向けた番組のプランも作るかもしれないが、それはトップ・プライオリティーにはならないだろう。

「同時性」と「局所性」は繋がり合っている。TV局の人たちは11時のニュースの視聴数を稼ぐために10時の番組の内容を気にするが、この繋ぎは強さよりも脆弱性を増す。人々はニュース番組を11時に見たいだけなので、10時の番組など見ない。

テレビ局はこういったトレンドと戦うだろう、なぜなら彼らはそういったトレンドを吸収して変化するのに足りる柔軟性を持っていないからだ。ちょうど自動車企業がディーラーや労働組合といったものに取り巻かれているように、テレビ局は地元というものに取り巻かれている。必然的に、テレビ局の人々は簡単な道を選んで古いモデルで数年続けることにまだトライするだろう。音楽レーベルがそうだったように

最新のWall Street Journalで視聴者を録画で自分の都合のよい時に見るのではなくライブでTVを見るようにする方法の1つとしてもっとライブ番組を増やそうとするTV局のことを記事にしていた。視聴者が望むものではなく、視聴者の習慣を変えさせてテレビ局側の古びたビジネスモデルに合うように仕向けようとしている。そんなことは独占やカルテルを行って強制しない限り絶対出来ないし、出来たとしても一時的な成功に終わる。

テレビ局がライブ放送を好むもう1つの理由は制作費用が押さえられるからだ。その点では彼らのアイデアは正しいのだが、その結果までを考慮できていない。ライブコンテンツが彼らが思うよりも安上がりにすることができるし、劇的なコスト下落のための方法はボリュームを増やすということだ。テレビ局の人々はこういった類の理論を理解する場から遠ざけられていた。なぜなら彼らは未だに自分たち自身が1つのシグナルを全ての人に送るような放送ビジネスをやっていると思い込んでいるからだ。 [4]

余暇の奪い合い

今はTV局と競合するスタートアップを始めるのに適した時期だ。多くのインターネット・スタートアップがそういう存在だ、彼ら自身はそれを明確なゴールとして設定していないだろうけれども。 人々は1日のうちの限られた時間だけしか余暇がないのに、テレビは「長い時間」を前提としていて(ユーザーに即座に彼らの欲しいものを届けることを誇りにしているGoogleとは違って)他の何に時間を使ってもテレビの時間とバッティングしてしまう。しかしこうした間接競合以外にもテレビ局は直接的な競合にも相対していくことになるだろう。

ケーブルテレビですら新しいチャンネルを見るのにハードルが高かったので早くからロングテールは切り捨てた。インターネットではもっとロングテールが長くなり、もっと流動性が高くなるだろう。この新世界では、既存プレイヤーは、どの大企業でも持てるものくらいしかアドバンテージとして持つことは出来ない。

放送ネットワークとコンテンツ制作者のパワーバランスが変わるだろう。放送局は昔はゲートキーパーの役割だった。彼らがあなたの仕事を配信し、広告をそこで売るというものだった。今では自分でコンテンツを作って自分で配信できる。今や放送局の主な価値は広告販売である。それにより彼らの立ち位置がパブリッシャーではなくサービスプロバイダになっていく傾向になるだろう。

「より便利であり続ける」ことが、インターネットが勝利した理由

エンターテイメントはもっともっと変化する。インターネット上では現在のフォーマットであり続けるべき理由は1つもなく、1つのフォーマットを持つことすら必要無い。実際、収斂がより面白くなっていくのは番組やゲーム業界だろう。しかしこの20年でインターネット上でどんなタイプのエンターテイメントが生まれていくかということを予言するなんてことは行わない、様々な物事が大きく変わるだろうということ以外は。
我々は最もクリエイティビティーがある人々が創り出すものを手にいれることが出来るようになるだろう。だからインターネットが勝利したのだ。

注釈

[1] この点でTrevor Blackwellに感謝する。彼は「私は90年代前半、電話会社の人々の目が収斂について話しているときに輝いていたことを思い出す」と付け加えた。彼らはほとんどのテレビ番組はオンデマンド配信になると考え、実装すれば大金になると思った。しかしうまくいかなかった。彼らはローカル局のインフラが必要になると踏んだ、なぜならインターネットにはまだデータセンターが殆どなく、ストリーム配信は出来なかったからだ。その当時(1992年)には国をまたぐインターネット帯域ですらビデオ配信には足りなかった。しかし広域帯域は彼らの予想を超えたスピードで増加し、iTunesとHuluに負けてしまった。

[2] 著作権者は、海賊版に対する見方、つまり失われた売上についての問題にフォーカスする傾向にありユーザーが海賊版を使うのは無料で欲しいという欲求がそうさせると考える。しかしそういった考えに対してiTunesが示したのは、もっと簡単に利用できるようにするなら、人々はオンラインにあがったものにお金を払うということだ。海賊版における大変意義深い要素は、海賊版の利用方法がユーザーにより良いUXを提供しているということだ。

[3]もしくは実際にコンピューターである電話だ。テレビを置き換えるようなデバイスのサイズについて予言するわけではないが、ブラウザーを持ちインターネットからデータを受け取るものになるだろう。

[4] Emmett Shearは「スポーツにおけるロングテールは他の種類のコンテンツのロングテールよりもかなり大きい可能性がある。たとえば誰でも高校サッカーの試合を放送することができて10000人にとって面白いコンテンツになるだろう、もし映像の質が悪かったとしても。」と言った。

Sam Altman、Trevor Blackwell、Nancy Cook、Michael Seibel、Emmett Shear、 Fred Wilson、このエッセイのドラフトを読んでくれてありがとう。

=====以上、翻訳=====

まとめ

最後、謝辞のところにSam Altman(先日 Y Combinatorのトップになった起業家)が出てきましたね。Sam AltmanがY Combinatorのトップになったのは突然の話ではなく、以前から深い交友関係にあったということが分かりますね。

この文章が書かれた2009年3月の時点から5年が経ち、アメリカでは多くのコンテンツがオンライン化しましたよね。スポーツ中継は各社ライブストリーミングを行っているし、過去の試合も全てPC、iPad、iPhone、AppleTVなどで観ることができます。ただ、日本ではまだまだテレビの力が強いように感じます。これが地域性の問題なのか、たまたま全テレビ局がオンラインに舵を切れていなくて結果的に上記記事で触れている「独占やカルテルを行って強制している」状況となっているのかはわかりません。
逆にスタートアップ側の視点で考えると日本でインターネットコンテンツはまだまだテレビから時間を奪い取る余地があると言えるのだと思いますし、そう考えると日本におけるエンタメ系のスタートアップってもっと出てきても良いのかもしれないですね。

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